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一乗谷散策 一乗谷朝倉氏遺跡

〒910-2153 福井県福井市城戸ノ内(きどのうち)町

朝倉氏遺跡保存会 TEL 0776−41−2330 

戦国時代へタイムスリップ。のどかな自然と歴史散策。

 

 戦国時代には、およそ一万人もの人がにぎやかに暮らし、戦国大名朝倉氏の大城下町だった一乗谷。当時は京都から公家や文化人を迎え華やかな文化を開花させていました。しかし1573年、織田信長の越前侵攻により一乗谷は灰塵(かいじ ん)に帰し、越前の中心が現福井市の北の庄に移ったことで一乗谷の里は人里遠く隔絶されました。 朝倉氏遺跡は町並みの跡、庭園の保存状態が良好で多くの出土品も現れ、 歴史的価値が高まりました。

朝倉氏遺跡の画像UP!

一乗谷の歴史

 朝倉氏は南北朝時代には、一乗谷を本拠にしていたようです。文明年間には重臣が一乗谷に集住するようになり、また足利将軍家の分家である鞍谷公方などもいたことから、応仁の乱により荒廃した京より多くの公家や高僧、文人、学者たちが避難してきて、一乗谷は飛躍的に発展し華やかな京文化が開花した。このため北ノ京とも呼ばれた。戦国4代朝倉孝景の頃から全盛期を迎え、最盛期には人口1万人を超え、越前の中心地として栄えていた。1499年(明応8年)には足利義稙が朝倉貞景を頼り来訪する。1567年(永禄10年)11月21日には戦国5代朝倉義景が足利義秋(1568年(永禄11年)4月一乗谷で義昭に改名)を安養寺に迎える。義景は義秋を歓待するが、同年7月24日、義昭は上洛を果たすため織田信長を頼って美濃国に出国する。
 1573年(天正元年)8月16日、刀根坂の戦いに大敗した義景は一乗谷を放棄し大野へ逃れる。翌日、信長の軍勢によって火を放たれ一乗谷は灰燼に帰した。この戦の功績により信長から守護代職を与えられた朝倉氏旧臣の桂田長俊(前波吉継)が一乗谷に館を構え、越前を統治していた。しかし、同じ旧臣である富田長繁ら国人は長俊に反感を抱いており、民衆に一揆を起こさせるべく画策した。1575年(天正3年)1月18日、吉田郡志比庄で一揆が蜂起、翌日には長繁を先頭に坂井郡、吉田郡、足羽郡の一揆勢3万3千人が一乗谷に攻め入り、長俊は一族もろとも討ち取られた。信長が一揆を平定した後、越前八郡を与えられた柴田勝家は、本拠を水運・陸運に便利な北ノ庄に構えたため辺境となった一乗谷は田畑の下に埋もれていった。優れた造りの庭園も堆積する土砂に埋もれたが、1967年(昭和42年)に発掘が開始され注目されるようになった

刀根坂の戦い (1573年8月14日)

 刀根坂の戦いが行われたのは、天正元年(1573)の8月14日。この戦は、信長包囲網の一翼を担った浅井・朝倉連合vs織田信長の最終戦。きっかけは、織田の大軍に本拠・小谷城を囲まれた浅井長政の要請により、朝倉義景が越前より援軍を率いてきたことにはじまります。
元亀4年(1573)4月、武田信玄死去、同年7月、織田信長が足利義昭を追放。※この7月に元亀から天正へ年号が改元。このあたりで危機を覚えた浅井長政は、朝倉義景に援軍を要請します。義景はさっそく越前国内に動員をかけるものの、朝倉景鏡や魚住景固といった一門・宿老たちが「度重なる出陣で疲労」などを理由になんと出陣を拒否。仕方なく義景は、自ら手勢を率いて出陣しました。
その数2万と伝わりますが、重臣たちの出陣拒否にあった事情や当時の越前の石高などを考えると、実際はその半分くらい、せいぜい7〜8千ではないかとする説もあり、悲壮感漂う出陣だったとされています。

一乗谷城の戦い (1573年8月17日)

 元亀4年(天正元年、1573年)8月13日の刀根坂の戦いのあと、15日から16日にかけて、信長は味方の将兵を労うと同時に休息を取らせた。そして17日には大軍を整え、義景の元家臣前波吉継を案内役にして越前に攻め入った。一方、義景は15日に一乗谷(一乗谷城)に帰陣したが、味方の劣勢を知った国内の武将らで馳せ参じるものもなく、もはや義景の手勢は近習含めわずか500人となってしまっていたと伝えられる。ここにおいて、従弟で朝倉氏の同名衆筆頭の大野郡司朝倉景鏡が、一乗谷を捨てて越前北部の大野郡にて形勢の建て直しを図るように進言した。大野郡は盆地であり守るに堅く、当時朝倉氏と同盟関係にあった平泉寺を頼りに再起を期そうと促した(平泉寺は勇猛で知られる僧兵集団があり、近江出兵で丁野城の守備についていた)。しかしこの時、すでに平泉寺の僧兵も所領安堵などを条件として信長と内通していた(木下秀吉による事前工作と伝えられる)。
18日、信長は一乗谷の市街地を襲撃制圧して焼き払った。往時は1万人余もの人口にて繁栄を誇った街は灰燼に帰した。一乗谷突入の際の信長方で、最も際立った働きをしたのは当主武田元明を朝倉の捕虜にされていた若狭武田氏旧家臣らであったと伝えられる。この時、朝倉氏になおも忠義を尽くそうとする者数百名が織田軍と戦ったと伝えられている。それより以前に手勢のみを率いて一乗谷を逃れ、景鏡に促され大野郡へと移動していた義景は20日、仮の宿所として景鏡に指定されていた六坊賢松寺を、周到に主を裏切った景鏡の手勢200に囲まれた。近習らが奮戦・討ち死にする中で義景は自刃、景鏡は義景の首を持参し信長に降参した。義景の嫡男・愛王丸や義景の愛妾小少将など、義景の極近親者は降伏を条件に助命され捕らえられた。義景近習の一部はあえて殉死せずに生き残り、彼らの助命交渉やその後の世話をしようと決めていたが、織田軍により義景の係累たちは護送中に処刑された。一部の武将、一族衆らは織田方に参したが、特に重く用いられるものはなかった。またその他の親族衆・武将らがその後、反乱を企てたり、一向一揆とともに決挙したりしたが、数年後、越前一向一揆殲滅のため越前に再侵攻した信長の前には無力であった。
この後、織田方は軍を北近江に返し小谷城を攻撃、浅井氏を滅ぼした。

一乗滝 (朝倉氏遺跡より奥に車で約7分)

剣豪・佐々木小次郎の秘技「燕返し」の技は、この滝であみだされたといわれています。夏は冷涼な避暑地として、秋は紅葉の美しい場所として訪れる人を楽しませてくれます。

東郷町 (朝倉氏遺跡の手前に車で約10分)

JR越美北線、一乗谷駅のひとつ手前の駅、越前東郷駅から徒歩5分、東郷の町の中心道路に流れる親水路、堂田川の川沿いには、色鮮やかな美しい花々が植えられていて、通りを利用する人々に、やすらぎと憩いの雰囲気を与えています。

朝倉氏遺跡では季節ごとにいろんなイベントが開催されています

朝倉氏遺跡

朝倉氏遺跡

朝倉氏遺跡

朝倉氏遺跡

朝倉氏遺跡

一乗滝

 朝倉氏遺跡復元街並 利用概要

  開館時間 AM9:00〜PM5:00 (最終入場16時30分)
 
入場料金 大人 210円
  ※ 団体様大人20人以上は割引有り

   満70才以上(証明書必要)、中学生以下、障害者は無料。
   休館日 12月28日〜1月4日まで

一乗谷朝倉氏遺跡 福井県福井市城戸ノ内町
管理事務所 TEL 0776-41-2173

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