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敦賀市散策 疋田舟川

〒914-0302 福井県敦賀市疋田28−7−1

お問合せ(愛発公民館) TEL 0770-27-1101

敦賀湾と京都を結ぶために造られた疋田運河遺跡の紹介

 

 疋田舟川は江戸時代後期に、日本海を経由して運ばれた莫大な物資を敦賀港から京都へ送るために設けられた運河の遺跡です。大量の物資を一気に輸送するためには船舶が最適であり、敦賀湾と琵琶湖を水路で結ぶ効果は計り知れないもののようでした。昔から幾多の人々がこの運河開削に挑戦し、その一部として、敦賀の港からこの地まで開通したのが疋田舟川です。

新疋田駅と鉄道の歴史散歩

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舟川の川幅は9尺(約2、7m)、総延長は約6、5km。水量が少なく、舟底がつかえるため、川座に丸太を敷いて滑りやすくしてあるのが特徴です。道路に沿ったところでは縄で舟を引き、道から離れたところでは、竿で押しあげて舟を利用したようです。現在は川幅が狭くなっていますが、川が流れる街並みの風景は、当時の面影を残しているようです。

疋田舟川用水路

 疋田舟川用水路は福井県の農業用水では唯一「ふくい歴史百景」や「福井ふるさと百景」に選定された疎水です。福井県敦賀市は古くから湊町として栄え、「越」(現在の新潟県、富山県等)や「陸奥」(現在の福島県、宮城県、岩手県、青森県、秋田県の一部)から日本海を舟で運ばれた物資や、京都や奈良からの物資を、人の手や馬借により山中峠(敦賀市山中)を越えて湖北(現在の長浜市、米原市)や海津(現在の滋賀県高島市マキノ町)へと、海津からは琵琶湖上を介して行き来していました。この敦賀湊から海津までの街道は、「北陸道」と呼ばれました。 利便性と利益向上のため、古くから敦賀湊と琵琶湖間に運河を設け、川舟で大量の貨客を輸送しようという計画が考えられていましたが実現化されず、平安時代末期から江戸時代まで、運河計画が持ち上がっては消えるということが繰り返されてきました。 しかし、文化12年(1815年)、琵琶湖疎水計画が幕府および小浜藩によって具体化し、同年7月に完成した舟川は、幅が9尺(約2.7m)あり、これにより敦賀湊から疋田まで水路による大量輸送が可能となりました。現在に至っては、農業用水として農地をかんがいするとともに、消排雪や防火用水、洗い場などの生活用水としても利用されるようになりました。

愛発舟川の里

 平成28年9月22日、愛発舟川の里がオープンしました。展示室には、舟川にまつわる「敦賀より琵琶湖北岸迄道筋・舟川略図」や「敦賀・琵琶湖運河計画図」など貴重な資料が展示されています。

愛発舟川の里

愛発舟川の里

愛発舟川の里

愛発舟川の里

愛発舟川の里

愛発舟川の里

福井県史跡 疋壇城(ひきだじょう)

 疋壇城は、文明年間(室町時代1469年〜1487年)に朝倉氏の将、疋壇対馬守久保のよって築かれた。
疋田の地は、柳ヶ瀬越・塩津越・海津越といった越前と近江を結ぶ道が集まる交通、軍事上に要衝であり、越前の最南端における防御拠点としての役割を果たした。また古文書からは、本城の東・南・西の三方にそれぞれ出城が設けられていたこともうかがわれる。元亀元年(1570)の織田信長による越前攻めの際に、天筒山城・金ヶ崎城と共に疋壇城も落城した。信長軍が撤収した後に、一旦は修復されたらしく、朝倉氏の栂野三郎右衛門尉景仍らが布陣した。しかし天正元年(1573)8月に再び信長が越前に進撃すると、刀根坂の戦いで朝倉方は大敗、城主疋壇次郎三郎は討死、城も破却された。
これから400有余年、今も石塁や壕跡が名残りをとどめ、周辺にのこる城郭関連の小字名と共に往時を物語っている。

北国街道と疋田宿

 疋田は古くからの交通の要衝であり、近江から越前に向かう複数の道が集合する地点で、軍事上も重要な地であるため、古代には三関のひとつである愛発関があったいわれています。戦国時代初期には朝倉氏により疋壇城が築かれましたが、織田信長との戦いを経て同城は廃城となりました。その後、柴田勝家が北国街道を整備した為、疋壇はその後、疋田宿として栄えたようです。疋田舟川の集落の隅に、史跡疋壇城の看板が建っていて、そこから歴史を感じる古い石階段を上がって行くと、大きな広場が現れます。そこには西愛発小学校跡地の石碑と、史跡疋壇城址の古い石碑が、少し距離をおいて建っています。疋壇城の本丸跡、石垣、堀の遺構は現在も残されていますが、この場所が時代ごとに様々な歴史を刻んできた場所であることが感慨深くもなります。

JR新疋田駅

JR新疋田駅

JR新疋田駅

疋壇城址

疋壇城址

疋壇城址

鉄道写真撮影ポイントとして人気の新疋田駅

 全国の鉄道ファンが注目を集める新疋田駅。敦賀市の中心部から約5km、国道161号線沿いにあるJR新疋田駅は、美しい山々に囲まれ、緩やかなカーブを描いた長いホームが印象的な美しい駅です。周辺には鳩原ループ線をはじめ、新疋田駅〜敦賀駅間にはいくつかの鉄道写真撮影の名所があり、カメラを構えるファンの姿もよく見られます。駅舎内には、鉄道ファンによって撮影されたと思われる多数の写真や思い出ノートなどが設置されていて、鉄度マニアならずとも旅情気分を味わえます。

JR新疋田駅

JR新疋田駅

JR新疋田駅

JR新疋田駅

JR新疋田駅

JR新疋田駅

柳ヶ瀬トンネル(柳ヶ瀬隧道)

 疋田交差点から国道8号線で米原方面に向うと、間もなく刀根方面への分岐点があります。ここから刀根を経由して滋賀県の木之本方面へ向かう途中、片側通行方式のトンネルがありますが、このトンネルは、明治17年完成当時、日本最長(1352m)で、現在も使用されてる国内トンネルの中では2番目に古いトンネルです。当時、神戸〜東京間の鉄道が部分開通してる中、北陸の米を大阪の市場へ出すことを目的に敦賀線(敦賀〜長浜)が建設されました。それまでの北陸米の運搬は舟運のみ(和船)で、敦賀、新潟がその積み出し港でした。航路は主に敦賀・新潟〜下関経由〜大阪、または敦賀金ヶ崎〜琵琶湖〜淀川水運のみで、この鉄道の完成により90日〜半年の所要日数が3日に短縮されました。

柳ヶ瀬トンネル

柳ヶ瀬トンネル

柳ヶ瀬トンネル

柳ヶ瀬隧道刀根側入口

柳ヶ瀬隧道

柳ヶ瀬隧道木之本側入口

小刀根トンネル(旧柳ヶ瀬線トンネル)

 昭和32年の深坂トンネル開通までは、北陸本線として、それ以降昭和39年の廃線までは柳ヶ瀬線のトンネルとして使われていた小刀根トンネル。わが国最初の鉄道トンネルは、阪神間の石屋川トンネルですが、これはイギリス人技術者によって造られました。日本人技術者によるものとしては、明治13年(1880)の京都から大津間の逢坂山トンネルに次いで、翌14年、2番目に造られたのが、この小刀根トンネルです。総延長は56mと小規模ですが、トンネル入口はレンガ造、馬蹄型の構造で、内部は岩盤の露出部分とレンガ積みの2段に亘る構造になっており、当時の技術をそのまま伝えています。他の鉄道トンネルはいずれも改修がなされているので、この小刀根トンネルが現存するものとしては建設当時の姿を留める最古の鉄道トンネルということになります。平成8年、敦賀市指定文化財(建造物)に指定されました。

小刀根トンネル

小刀根トンネル

小刀根トンネル

小刀根トンネル

小刀根トンネル

小刀根トンネル

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