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福井県大野市 面谷鉱山住居跡地

福井県大野市九頭竜湖の箱ヶ瀬橋より約5km

大野市観光協会 TEL 0779ー65ー5521

日本有数の大規模鉱山の歴史が残る、大野市の面谷鉱山住居地跡。

 

 九頭竜湖にかかる夢の架け橋(箱ヶ瀬橋)を右折してしばらく行くと面谷橋が見えてきます。この橋を渡ると面谷鉱山住居跡地まで4kmの看板があります。看板に従い山道を約4km走るとボタ山や集落跡が現れます。明治から大正にかけ、三菱合資会社(現、三菱マテリアル株式会社)により近代経営されていた日本有数の大規模鉱山と全盛期には約三千人の人々が暮らしていた集落の跡地です。現在はその面影だけがひっそりと残されています。

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注意事項…面谷鉱山跡への山道は、狭くて未舗装の荒れた道路です。普通乗用車で行かれる場合は、それなりの覚悟が必要です。

面谷(おもだに)鉱山〜江戸時代

面谷鉱山の発見には2つの説があり、平安時代中期(1058〜1064年)に既に発掘されていた説と、室町時代前期(1342〜1345年)に清兵衛という猟師が露出した銅を発見してからという説があります。隆盛と没落を繰り返し、その後、天保3年(1832年)より、大野藩が直接経営することになり、鉱山経営は、大野藩の財政建て直しに大いに貢献しました。

明治時代〜大正時代〜閉山

明治21年(1888年)には、三菱合資会社が継承し、本格的な近代鉱山の経営が開始します。三菱時代の中でも明治22年(1889年)から大正6年(1917年)頃までが全盛時代であり、最盛期には600戸、3000人が面谷の地に住んでいました。奥越の中心であった大野町にさえ電気が無かった頃、既に面谷川の流れを利用した自家発電が行われ、電話や電信も早くから開通して、その町並みは「穴馬銀座」と呼ばれていたそうです。しかし、第一次世界大戦後の銅需要の減少と安価な輸入銅に押されて採算が採れなくなり、ついに大正11年(1922年)9月、面谷鉱山は閉山となりました。人々は面谷から離れていき、現在は面谷鉱山住居跡地として、当時の住居跡と墓石に往時のおもかげを残すのみとなっています。

追記

面谷鉱山は主に銅を産出していましたが、亜鉛や石英等の鉱物も産出しました。産出量においては大正6年(1917年)の年産32、950トンが最高だったようです。そんな景気最盛期から面谷が斜陽に差し掛かっていた大正7年(1918年)10月、スペインで発生した新型インフルエンザが襲来しました。鉱山の劇場で家族の慰安会が催され、診療所の医院長が村民に注意を促した矢先の同月中旬から11月にわたって全村民が罹患。流行が始まって僅か1ヶ月余りの間に90名以上の村民が死亡し、熟練工を多数失った鉱山は一時休止に追い込まれてしまいます。その後再開しますが、第一次世界大戦後の銅需要の減少と安価な輸入銅に押されて採算が取れなくなり、ついに大正11年(1922年)9月、完全閉山となりました。

夢の架け橋

県道230号線

面谷鉱山住居跡

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